見えない身体の輪郭を求めて

私は、塑像や描写という行為により得た彫刻的経験から、ものを見るということについて自覚したことが多くある。これは、対象を観察し、身体を使って物質を削り、運搬し、空間を作り変える行為であり、目に入ってくる情報と頭の中にあるイメージ、手にした物質とのあいだにある矛盾に対して労働を通じての思考である。

観察しながらものを作るという行為は、正面を見ながら、見えていない裏側を意識したり、それまでの移動を含めて感じたりとその瞬間だけでなく、過去や未だ見えていないものを想像し、常にここにないものを意識する。絵画のようにフレームで切り取られることもなく、映像のように編集されることもない、時間や空間という要素をそのまま一体のものとして作品の中に取り込む作業である。つまり、人間の日常生活のなかでものを見るということにもっとも近い行為であると言える。

ミケランジェロ彫刻の奴隷のポーズを見る時、表面を覆う骨と筋肉の流れは私たちに同じポーズをしたときの肉体の痛み、拘束感を思いおこさせる。それは単なる肉体の痛みだけでなく奴隷の精神の痛みであり、また作者の視点に置き換わった感情であるとも言える。私たちの視線と肉体は奴隷の肉体と精神に置き換わる事も出来れば、刻まれた鑿痕を通じて鑿をふるう作者の力と感情に置き換わることもできる。刻まれる前の物質としての岩とその中に閉じ込められた奴隷というイメージを一体のものとしてとらえる。人間がものを見るという行為はものの周りをぐるぐると回りながら、イメージと物質とを飛び越えて身体の在処が幾度となく置き換わり、伸縮と拡張を繰り返す作業である。

また、人体のような具象的なものに留まらず、空間自体にも同様の身体の置き換えや拡張が見られる。例えば、微細な顕微鏡の中や遠く宇宙の銀河の様子、霧の出る寒い朝の風景などは、ものの輪郭・距離感・水平・大きさを曖昧にする。また、空間いっぱいに充満する水蒸気の粒子は遠くの山並みから網膜の表面にまで地続きに満ちていて、冷たい空気は皮膚の毛穴を刺激し、目や鼻や口の奥に入り込み、体の内部を感じさせ、身体の外と内との境界を曖昧にさせる。このような風景の中では自分の身体は水蒸気の間に見えるかすかなもののように断片化され、空間そのものに溶け出してしまったかのように感じられる。このときの身体は特定の具体的な対象に置き換わるのではなく、ものと空間との境目をこえて溶け出し、漠然とした一つの器官の様な存在として感じられる。

このように視覚や皮膚感覚の経験を通じてあらゆるものに触れることの出来る人間の視線は細部を意識しながら同時に全体を眺め、取り巻く空間の中で、全方向に向かってものの存在を意識する。視線を移動させながら常に見る事の出来ない向こう側を感じ、見えているものと見えていないものとを同時に埋めていく行為を繰り返している。これはただものを見ているというよりは神経と記憶と触覚を駆使し、全身を使った運動を含めて時間と空間を捉えようとする行為である。

物質は自分と受け手の間に仲介する行為の形跡として存在する。我々は身体という共通の容れ物を持つことで、様々な物質を通じて相互に意識の交通が生まれる。

私が作る作品の中で登場する時間の層としての写真や、空間を取り巻き、触覚を写し取るパルプ、行為の形跡として描く線、透過、反射する面など、様々な物質と空間は私の身体の延長であり、これからもそれらの拡張を続けることで、見えない身体の輪郭を探り続ける。


中西信洋展 – 透過する風景 カタログ掲載(2011年4月24日〜6月19日)


← back