気化する視覚

真武真喜子[青森公立大学 国際芸術センター青森]

写真は見たものと写されたものが織りなすテキストである。私たちが写真を見るとき、撮られたイメージの上に自分が見たものの記憶を重ねていないだろうか。写真の余白に、見たものの記憶が重ねられる。誰か他人が撮った写真にさえ、自分の記憶の像をそこにかぶせてみる。こうした既視感によって写真のリアリティは膨らんでいく。中西信洋の、二百枚の巨大なスライドを吊るしたインスタレーションは、百倍、二百倍に膨張したリアリティを含んで、ギャラリーに森と朝焼けの空がそっくり持ち込まれた壮観を私たちに体験させてくれた。重ねられた余白が中西の写真作品に充溢しているからだ。
1メートル四方の透明フィルムがずらりと並んだ列を遠くから眺めると、長い2本の筒が弓形に延びているように見える。まるでミニマル・アートのようなインスタレーションと思いきや、近づくとみずみずしい自然を切り取った1枚1枚のフィルムが間隔をおいて果てしなく続いているのだとわかる。朝焼けの空に浮かぶ雲の列と、霧に霞んだ森の樹々の列、それぞれ二つの列に沿って歩くことは、観るものが自らの身体を運びながら、ちょうどそれらが撮られた時間を追って体験することに似ている。雲は歩行に連れ流れていっているし、次々と眼に飛び込む樹木の姿は、私たちの身体を森の奥へと誘い入れているようだ。しっとりと湿気を帯びた朝の空気が頬に触れ、樹木の呼吸が香りたち、土を踏む音さえも聞こえてくる。フィルムの物質感は、なまな空間に溶け込んでいき、薄い層の重なりが空気そのものとなって震えてくる。
30秒おきにシャッターを切る、というわずかな時差で連続的に撮影された像を、つなげて見ることは、まさに捲り絵、アニメーションと同じ原理で動きのイリュージョンを観る人にもたらすものである。アニメーションは立ったまま、あるいは座ったまま動画像を見るのだけど、中西の連続スライド・インスタレーションは、逆に静止画像を歩きながら連続してみることによって動画像を仮想体験していることになるのか。鑑賞者に作者の体験を追わせる、といえばジャネット・カーディフ(註1)というカナダの映像作家の作品を思い出す。カーディフの映像作品は、映像の現場で録音された音とともに、鑑賞者の視線を促すカーディフ自身の指示の声をヘッドフォンによって聴きながら眼と耳の両方で体験するものである。環境音に混じってカーディフ自身がたとえば枯葉を踏んで歩く音や、息づかいまで聞こえるし、それがヘッドフォンを通してやってくるので、現時点の体験と錯覚するほどの仮想性を帯びている。鑑賞者は音という虚構に伴われて作者の行為を追体験するわけだ。中西の「レイヤー」もそれに似ている。私たちはレジデンスを抜け出して山に向った早朝の散歩者を追いかけることになるのか。中西の「レイヤー」には、音は含まれていないので、もしも雲が流れる音や樹間を渡る風の音が聞こえたとしたら、その仮想性はもっと強いものだ。これらはいったいどこから漂ってくるものなのか。はじめに言ったとおり、重ねられた余白の、その厚みがもたらすものではないか。透き通った薄い膜の連なりであるにもかかわらず、その余白には厚みがある。私たちは、一枚ごとの膜の中にある余白を見、そしてその膜と膜の間隙を見て歩いているのである。
そのことに気がついたのは、中西の「この作品は時間を横から見るもの」(註2)という言葉を聞いたときだったかもしれない。並んだフィルムを正面から透過視することは、ある程度まで可能である。重なりながらわずかにずれていく像の連続は、正面に佇むだけでも時間の経過を感じさせてくれる。ただし百枚の重なりによって、空間を占めるフィルムは違った物質的存在感を帯びてくるので、確かに空気が漂うような時間の感覚は、歩きながら横から覗くときにより強く得られるのである。それぞれのフィルムの間隙は20cmである。横から覗くということは、20cm幅の空気の層としてあるフィルムの隙間を覗くことでもある。こうして中西の作品は、またも何もないところに私たちの視線を誘うのか。
2003年ノマルエディションでの個展「空洞と空白」では、グレーのパルプ粘土を壁面にはり、また同じパルプ素材を固めて作った球体が連なった塔のようなものをいくつか空間内に立てた。(図1)壁面上の形態もまた立体も、不定形な境界を二次元三次元空間に作り出すもので、もののあるところとないところ、つまり図と地を逆転させて見せる装置であり、何もないということがあることと空間的に等価であることを視覚的に証明するものだったと思う。
空隙を見る人、中西は何もないところになぜ眼を向けるのかと思う。その謎に触れたくて、過去の作品やドローイングを探ってみる。しかし中西のこれまでの仕事を通覧すれば、雲の覆いをかけられたようにさらに謎に包まれてしまう。衣服をモチーフにして、おそらく身体の問題を自己と他者の関係に重ねていたのではと思われる初期の作品群がある。続いて段ボールでつくったミニチュア・カーのインスタレーションは、車のサイズが均衡を欠いていて、バスやダンプカーが極端に小さかったり、普通車なのに、何台分ものも長さがあったりして、速さや大きさやといった、ものを測る基準値を撹乱しているのだろうかとも考えさせられた。ところがじっと眼を凝らすと、ちょうど「空白の庭」(註3)のように雲の部分が形を成してきて、つながりが現れる一瞬がある。それは水のにじみか気泡の集まりであるかのように見える淡い水彩のドローイング群に眼を留めたときに感じられた。滴りやにじみは何かの形態になろうとしている途上のように見え、あるいは何かのかたちが蒸発して気体化していきつつあるようにも見える。そしてそれは「煙のような絵」(註4)を見たときに、より確かな感触となり、「間のかたち」や「間の穴」が出てくると確信に触れた気さえしてきた。
「煙のような絵」を描こうとした中西は「物質感のある気体の見え方」を探していると言っていた。(註5)手でつかめない空気のようなものを明白な形態として描き出し、さらにそれを立体に仕上げる。かと思えば存在感のある大きな立体は穴だらけで向こう側を覗けるのである。地下室を塞いでしまいそうな塊は塵のような土を固めたもので、強くたたけば粉になってしまうという。こうなれば、ただ見えないものや何もないところを見ているというわけではなさそうだ。中西の関心は物のありかたすべてに、あるものもないものも、それらがどんな様態で空間をふさいでいるのか、あるいは空間をあけて見せてくれるのかと、そんなところに向っているのではないか。
今回の大きなフィルムの作品が登場する直前のシリーズは、「レイヤー・ドローイング」と名づけられた、その原型ともいえる写真の作品群は、様々な物質や風景を撮った35mmのポジフィルム24枚ずつ重ねてブロック状にまとめ、ライト・ボックスの上に並べて上から覗くものである。今回プロジェクト・ルームにその一部が展示された。ミクロの世界をプレパラートの中に覗く顕微鏡にも似た装置が作品なのだが、覗き見るのにルーペが必要なほどの小さい被写体は、もとよりはっきりした形態をもたないように見える物質の断片である。これらのシリーズは中西が見てきたものの標本ともいえる。それらをひとつひとつ点検すれば、中西が見ようとするもののあり方がおぼろげに顕われてくる。ほぼ実物大の粉末や微塵体、液状のもの、焼け焦げまであれば、大きさを撹乱させられているが、樹や山など風景の断片も混じっている。ほとんどが流動体や霧散状態としてあるものだ。
気体が粉末に、粉末が固体に、固体が流体に変わる、そんな物質のあり方の変容を私たちは日々の生活で眼にしながら、何の不思議も感じず、眼を向けることさえしないでいる。ところがその普通のことが、見ている何もかもに起こったとしたら、私たちは目をそむけてはいられないだろう。こんなありえない現象を中西は、物理的な対象や空間の中に見ているのかもしれない。つまり着ている衣服がいつのまにか穴だらけになり、それにつれ中の身体が剥き出されるのかと思えば、中身はなく空洞が覗く。走っている車は排気ガスと一緒になって、ずんずん削られ消えていく。逆にたゆたう煙が確固とした形態をもつものになる。こうして見えるものと見えないものを、あるいは見たものと見てないものを混在させることで、中西は知覚体験に揺すぶりをかけているのだ。おそらく本当に見たいものを探し続けるために。
見ているものと、見たものの記憶と、いまだ見ぬものとが、中西の視覚の中で交叉している。見ることによって、現時点の知覚体験と記憶とが激しく衝突しているかのようだ。そこでは実際に見たものが消え、仮に見たものが残る。あるいはこんな夢想はいかがだろうか。見ることが所有することであるとしたら、中西は見ることに貪欲である。まるで中西がひとたび強烈に見てしまったものはヒトの視界からも消えていくのかと思わせる。21世紀の末に人類がもしかすると宇宙のどこかで体験するかもしれない、そのような視覚体験を、中西は独り先行しているのだとしたら。実のところ、他のヒトはもう見ることができないのかもしれない。中西は見たものを気泡に変えるのだから。余白に記憶が重ねられるかわりに、知覚された像は片端から空中に雲散霧消していく。私たちが見るのはただ残された空洞である。


(註1)2005年第2回横浜トリエンナーレに出品した。このときも映像作品で参加したが、サウンド・アートの作品として発表する場合、鑑賞者が現場で、作者により録音されたサウンドを時差をおいて聴きながら体験するものである。
(註2)いきなりギャラリー・トークを依頼された中西が咄嗟に表現したもの。
(註3)前述した「空洞と空白」展の出品作タイトル。
(註4)2002年9月ギャラリーワークス(大阪)での「中西信洋 Recent Works」展で発表されたドローイング。同時にアルミによる立体も展示された。
(註5)同上展でリーフレットに発表されたコメント。


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