知覚する身体:《Layer Drawing》の時間、《Stripe Drawing》の空間

近藤由紀[青森公立大学 国際芸術センター青森 学芸員]

中西は自身の文章やレクチャーにおいて、しばしばミケランジェロの未完の像を例に取り上げる。それは中西が多様なメディアによって作品を展開しながらも、彫刻的な観察と制作の方法がその基盤にあるということとも関係するのだが、ここで注目したいのはミケランジェロを例にとった二つの身体的な追体験についての言及である。中西はここで鑑賞者は二種類の追体験をするという。一つは彫像の考え抜かれた一瞬の表情や捻じれた身体から想起される作中人物の身体あるいは感情についての追体験であり、もう一つは大理石を彫ってその像を制作した彫刻家の感情や感覚についての追体験である。大理石の物質感とは不釣合なほど完成形に近い、彫り出されつつある人物像の上ののみ跡に彫刻家の感情や感覚をみるのは、おそらく制作者特有の視点であろう。だが同一のイメージの上で、制作者と作中人物という異なる種類の身体感覚や感情を、見る者の身体を媒介に同化させたこの言葉は、中西の作品にあてはまる。
中西の作品のモチーフの多くは「自然の風景」である。それゆえ作中人物の身体の感覚を追体験することはない。一方でそれは目が捉えた一枚の静止画像としての風景ではなく、身体的な知覚体験を通した時間と運動を孕んだ「風景」として提示される。そのことでここでも見る者は作品体験として二つの身体的な知覚を追体験することとなる。一つは今そこにある匿名化された風景と同じような風景を体験した自分自身の経験の追体験であり、もう一つはその作品としての風景を作りだした作家の知覚の追体験である。
当然のことながら世界の知覚は一枚の写真のように固定された視点が焼き付けた固定された視覚イメージによってなされるのではない。ある対象の知覚は、脳、運動神経、網膜が対象そのものの全体性に向かって緊密かつ連続的な関係性をもってなされていくといえるだろう。中西は作品において網膜的な視覚イメージを排除せず、こうした連続的な関係性を、連続的なプロセスを用いて提示しようとしているように思われる。そう考えると≪Layer Drawing≫のシリーズは運動の連続性を、≪Stripe Drawing≫のシリーズは空間の連続性を示すことで対象の全体像把握のプロセスを包括しつつ、その身体を通じた知覚イメージを提示しているといえるだろう。
≪Layer Drawing #001—#081≫(p.12-13)は、それぞれの事物、風景の時間や運動の連続的な変化を重ねて全体像を形成することにより二次元的な視覚イメージを超えた対象把握のプロセスを一つの形として提示している。それらは小さな光る箱(スライドマウントを24枚重ねているために、小さな箱の中にイメージが浮かんでいるようにみえる)の中におさめられた実体のない立体物、3Dイメージのようにみえる。だがそれは奥行きや深さが加わった3Dではなく、事物、風景の連続的な変化、すなわち連続的な運動性がもう一つのディメンションとして加えられている。
これに対し≪Layer Drawing—Fog≫、≪Layer Drawing—Cloud≫(p.8-11)は、同様の手法が用いられながらも、そこに観客の移動という見る者の運動性が加えられる。全長約20mのこの作品を詳細にみるためにはその長さ分だけ歩かなければならない。定点で撮影された日の出の様子を撮影した≪Layer Drawing—Cloud≫は、視線を斜めに置き移動しながら作品を眺めていると、身体の移動によって残像効果が生じ、うっすらと光を孕んだ雲がゆらゆらと動いているように見え、刻々と変化する雲や光といった捉え難い現象を眺めているその連続する時間感覚がよみがえってくる。また≪Layer Drawing—Fog≫は、歩行によって変化する乳白色の濃い霧とそこから次々と出現する木々を眺めることにより、自らが森の中を歩いているような心地がするとともに、作者の目や歩行も感じられ、それが次第に同化していくようである。しかしふと目線を真横に移すとそこには断絶された時間としての「すき間」があり、フィルムのフィルムとしての物質性があらわになる(p.10)。その境目はまるでミケランジェロの彫り出された像と生の大理石の境をみるかのようである。
2005年に国際芸術センター青森のアーティスト・イン・レジデンス・プログラムにおいて滞在制作されたこの作品は、特徴的な半円形のギャラリーのカーブにそって展示されることにより、100枚のフィルムの並びにずれを生じさせる。それにより作品は、無機質な空間の中にぽっかりと浮かんだようになる。透明なフィルムの上に焼きつけられた写像は、重ねられることで現実の霧や雲よりも厚く、寒天のような重量感と非流動性/非運動性を持った塊のようになり、切り離された時間として宙づりにされる。その時間は時計の針が一目盛り動いたことで時の進行を認識するのとは逆で、我々が動いて初めて動き出す。
これに対し≪Stripe Drawing≫は、空間的な連続性を想起させる。中西は今回の個展のために新作≪Stripe Drawing—Transparent view≫を制作、発表した(p.2-5)。12枚のアクリル板はコの字に置かれ、内側に入ることもできる。板の表面にはエングレイバーによって長くまっすぐな細い線が刻まれ、透明の地の部分には森の木々や流れる雲を思わせる形が浮かぶ。その白い線は、垂直というよりはアクリルの上に吹き付けられ、流れ、充満しているようにみえる。中西の種明かしによるまでもなく、これは雪の光景だ。猛吹雪の中を歩いたり、運転したりしたことがあるだろうか。天も地も、右も左も、真っ白な世界で通常は先が見通せるはずの何もない空間が不可触の白で埋め尽くされる。確かに目をあけているのに、確かに地面に足(あるいは車)が着いているのに、軸を失ってしまう。圧倒的な白さと寒さに包まれ、全ての感覚がぼやけるような感じがするのである。
コの字の内側に入ると、壁面のせいで周囲の音が遮断され、薄い膜に包まれているような感覚の鈍りを覚える。透明のアクリルの向こう側には反対側に居る人や壁が透けて見え、視点は手前と奥、線と空白を彷徨う。手前に焦点が合うと白い線描が前面に現れ、奥に焦点が合うと、背景と自分との間が白い世界で埋まる。この作品の前に制作された新青森駅前モニュメント≪雪まち—Aomori Reflection≫(p.14-15)は同様の手法ながら、その彫刻が鏡面に施されている。何もない地の部分には作品の前に立つ鑑賞者とその現実の背景が映し出され、図と地、現実と描かれた風景が鏡面の上で共存する。一方この作品では見る者の身体は空間的に切り離されてそこに置かれたまま、視線が白の世界を透過した先へと進むことにより、身体を境に前後へと空間が広がっていくような感覚を覚える。
この≪Stripe Drawing≫のシリーズは、中西が2003年から継続的に制作している平面作品である。中西はこの作品の制作を「触れたいけれど、決して触れることのできないものに触れる行為」*という言葉で表している。≪Stripe Drawing≫のシリーズでは、何もない空間が細い線で埋め尽くされ、何らかの形は何も描かれていない地の部分によって暗示される。言い換えればそれはそこに充満している空気や光といった見えない何か、触れることのできない何かについての感覚を線に置き換えているといえる。一方でそれは例えばある風景をみるまでに費やした時間やそれにまつわる記憶のようなものも含まれており、単純な感覚の置き換えではない。
フリーハンドで垂直にひかれた≪Stripe Drawing≫の線を近くで見ると、まっすぐであろうとしながらも身体の揺れにより細かく震えているのがわかる。作者の身体の動きを想起させるそれは、個としての身体感覚であり、その集合体として現れる「風景」は、世界との曖昧な関係性、空間へと溶けだすような広がりと連関をもつ、拡張された身体の風景として現れているようだった。
同時に展示された≪Stripe Drawing—Endless≫(p.6-7)は、それを如実に語っている。紙に鉛筆で描かれたそれらはループ映像で流れていく。それは拡張された身体が風景との境界がわからないまま無限に広がっていく様子と重ねられる。それは空間とその中に重量をもって存在する対象物/物質との関係性を逆転させることで得られた内宇宙であり、外宇宙である。
中西が多様なメディアによってその表現を行うのは、こうした連続的で不可分の時間と空間の全体像を身体を通じて把握しようと試みているからではないだろうか。それは不可触かつ不可視の空間と時間を身体を通じて捉えることにより、何か共通の感覚としての内部の諸感覚や運動を含めた身体に反映されたイメージとして可視化させ、再現前化しようとする試みであるといえるだろう。


中西信洋展 – 透過する風景 カタログ掲載(2011年4月24~6月19)
文:近藤由紀(青森公立大学 国際芸術センター青森 学芸員)
発行:青森公立大学国際芸術センター青森


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